京都 コンサートホール 1階長椅子の状態 !。と、心。

京都コンサートホールの1階に20年くらいぶりに、長椅子設置され、そして、その後、妻と一緒に設置具合を、昨年のあるコンサートを聴きにの時に夏ごろ行き、その時、鉄作りを座ったら、”なんと冷やかな感触”であった。家に帰り、早速、事務所に電話をし、座っても木質での様な暖かくなるように要請をした。それから、こちらも毎日の繁忙で忘れていた。今回、音楽の仲間「花」第25回コンサートに行く機会が生まれたので妻と行った。庶民が、無料での聴けるという素晴らしい事です。

2月12日、寒いころである。”どうなってるんだろう??”との気持ちで、開けるのに重たい1階のガラスドアを押して入り、前回も同じ所で置いてある白色長椅子に座った。”あれ、何か違うな―?、なんと!!ヒーターが座るところの鉄板の下に設置され、お尻が温かいではありませんか!!。丁度その時に、知らないおばさんも座りに来た。「この長椅子暖かいでしょう!!」というと、そのおばさんも「まー、ほんとに温かいですね―」と、喜んでおられる。その後に、妻も来て座る。「ほんまやー、前、来た時と全然違う、温かいなー!」と、喜ぶ。が、??~ 言わんでもええのに、「この長椅子は、うちの人が、長年してなかった事なんで、ここの事務所の偉い人と言い合をして、直ぐに、させやはったんですわ―ー」トの話をした。聞いたおばさんは、「へー、えらいなー人やねー、お宅のご主人!」トの話であった。

善行を出来る時は、勇気を出して行動をする。バスの中でも赤子を抱いて立っている人を見ると、見ぬふりをしてジーーットその人が前に立っている事に行動をしない青年。重たそうな荷物を持っているお年寄りに気がつけば、サーーット席を譲る精神ある勇気。暑い車内、蒸せるような空気の温度が上がってきてる車内、””何も感じておりませんで――トの態度で下を向き座る””。””そして、立っている人達””。その様な時に出くわすと、私は、窓を開くようでの行動をする。時々、京都では、この体験をする。忍耐力がある!!。と、言う物ではない。陰湿でもある。{バカ。。}と判断すれば―かなー??なのである。自身の身心を欺いて{あざむく}いるのだ。--卑怯ーーな動物化としたお下品な人間化した物なのだ。 顔だけを見て、ああ―男前、ああ―美人等を感じて信用をする時代は終焉したと、、めざめ!心!。

 

 

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すずめ 幼子の懸命の力ははかなく消える

すずめの親子が、なぜかよくチュン チュンと鳴くことがなんんとなく不思議にも長い。庭を見ると、おさないすずめが羽ばたきをしていても、ぴよんぴよんト動いている。屋根のどこかのある巣から落ちたのだろう?!。親も其の子を見て心配をして泣いてはいるのだろう。夕闇は迫ってもいた。

私は、そのまま置いていては、夜に為ると、何かに襲われ食われてはならんと思い、捕獲をして格子のある空気とうりの良い箱を見つけてその中に水と餌らしい物を備えた。私は、この様な小さな箱では、窮屈だなーと思い、もう少し大きな小鳥籠となるような物を見つけに、三〇〇〇〇〇キロを超走っている自家用で出かけた。私が出かける時は、元気で普通に動いてはいた。しかし、ある店で気のいったものを買っての帰りに、女房から携帯に電話が入った「はよ帰ってきて、動かんようになっている。」

帰ってみると、くちばしだけを開けたり、閉じたりして、容態はあの時のスズメ幼子ではなく、赤黒くぐったりとしている。私は、女房に出かける前に作らしておいた卵のにぬきの黄身をパクパクしている口にいれてやる。水も、努力はしたが動かなくなった。-なんと命のはかないものかー親スズメ、お母さん、お父さんは、心配そうにチュンチュンと来たと、女房は言っていた。

庭の片隅に土を掘り、白い布にくるんでやって、埋めてやった。其のそばに角石を立て、線香一本立て、手を合わせ、祈った。今、ここに住まして頂いている事での幼子すずめとの出会いが生まれ、そして、私のした行いは正しかったのか?思いは?総べては、 南無妙法蓮華経 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 。今日の一日の出来事は、二人にとっては又、人生での初めてでの””命””の一瞬のはかなく消えさる事を、幼すずめの”死”を直視の現実で知った。

総べての生きている物は、平等である。大学では命の平等は学ばず、教えない壇上の頭でっかちの教授が徘徊している。もちろん、私は、何時ものとうり、ポケットに乾パンを少し入れ歩きます。愛するすずめやハト達に、どこにあるかなーと食べ物をいつも探して飛びしているたちの為に。

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色色老人の生きざま発見ソレゾレ==その1

”年寄りになったなー” と、その人は、自分を爺―、婆―と身体を観て等で、自らを認めてしまう。

60に為っても、70に為っても、それ以上に年を数えても、私のように、”万年青年だ―”と、鏡に向かってでも、そして会う人もー「佐藤さん若いねー!!、御年幾つです?」と日本人の決まり言わんでもよい挨拶言葉と、おせいじ言葉がある。  ギネスに載ろうか?と70からでも大学に入り80歳90歳近くで卒業をされている老人が時たま新聞に載っている。学長:「この勢いで大学院を目指してください!」 老人:「学費が大変ですので。。。」と言う事を返礼として答えられていたようです。大学という学問勉学の為に、我が人生の時を、精神と老いの肉体との戦いの中で無事に周りの多くの方々の有形無形の助けによって、一枚の”卒業証書”を手にした。その間、多額の金銭を費やしたであろう何百万円ものを!、良く病に会わずのことであったなー、幸運の方だと思う。自らの為、残りの時を使うシニア。私は、近畿大学通信課程法学部を2年生の時、今年3月31日付けで退学をした。其のことは、まず、学費の出費の多いこと、一科目スクーリングに¥8.000.-振り込み必要。授業受けの為の交通費など含めて、一万円ほど。参考本、講師の発刊したもの必要と成り、2000円~3000円も買わざるを得ないことと成っている。ある時、串本に妻と旅行時、「そんなにお金使って苦労せんでもええんと、後の僅かな人生、奥さんと楽しい旅行に行ったりして楽しんだほうがええなと思います。」と、他人に見ず知らずの方に言われた。私は、--ああー、そうだなー、科目試験をうかっても、何日かすれば、忘れてしまう!頭の中にほとんど残っておらん!。法学部の講師の問いにも、その先生の考え方にそぐわない論文で答えとして早く提出して終わり教室を出たことでも、可 で、ええ加減な採点方法だ、授業中に講師の言っていたことに、”これこれですよ”と指摘をみんなのところでして、訂正をしてもらったことことも、ちょっとあるのかなー??。論文以外の採点は満点で合ったから助かってはいた。 残りの我が人生を弱者救済の為にも時をも使おうと決めました。

自分の為に、持っているお金を使っているシニア達の存在はある。他方、80歳の矍鑠としたシニアの人。同年代の人々の為に、”介護をしよう!!、””ト思い立ち、その為の勉学に精を出し試験に合格して、免許証を得て、介護施設で自らの残りの人生を働くと、言う事をしているシニアがいます。高齢デアルトいう事での採用規制をつけずに受け入れる経営者も立派なものだ。

ぶらぶらと散歩の毎日。そして、毎日の行きつけの公園などに行って、食の不足を感じているだろうなチュンチュンさえずりしてくれているスズメとかハト達に、定期的な時間にパン粉などをふるまって、与えているシニアもいます。

人は、誰しも、自らの事を愛し、また、人の事をも思い、愛し等での人生。”健康と、笑いと、心ある事を。。。。。。

 

 

Filed under: 思い出いろいろ — yoshihiro 2:00 PM  Comments (0)

Cop 21= Zero Defect Safety Number 1、 安全第 1

自分の国の民、弱者、子供、老人 女達の生活環境さえ、助けられない政治家達も集まって、良い服を着ての、三度の良い食事を取ってもいるのだろう。!!。 経済第一。第一のMoney,Moneyでの,進行での、今日。その下では、赤信号が出ている人間にとっても大事な空気が、先進国であるといえる 今日の中華人民共和国の首都、北京も、インドのニューデリーも侵されている現実。

私は、定時制高校4年生を卒業39年度、家の為もあり、住友金属工業株式会社 和歌山製鉄所に入社は当時の、京都大学工学部で鉄鋼業界大変有名な盛 利貞教授 様の下で2年間 冶金学教室で、研究さしてもらった。そのおかげであります。精鋼研究所での仕事であった。転炉や、平炉や

と言う処の熱風ある現場での1400度もある煮えたぎっている現場での鋼のサンプリングをして、それを分析センターに送り、その鋼の分析をしてもらい、それの成分を報告書にまとめてより良いものとするためがんばていました。製鉄所の要でもあるところでした。1か月85時間の残業もしました。近く歩いて5分程に会社寮がありましたので3食も確保されていました。

会社は、事故、現場でのけが等の無き様に、人、人間、そしての社員達への想いの為での、善き環境で働くための ”スローガン:安全 第一 :ZERO    DEFECT  を、全社的に号令をかけ、働く為のより良い環境、楽しい環境作りに邁進しました。すると、この様に、””利益追求を第一だーー!!””という無謀を捨て去った思いでは、会社の決算は良くなった。

COP に集合しておられる方々は、シャツとトレーニングパンツでの格好で席を同じして、利益追求思考の発言は無し、自国ではドレホドのガス削減出来る能力があるのか?!を約束出来る根性のある人間か?とも 言える場所にする。としてくださいと思います。なぜ??、あなた達は、後10年、20年、30年などなどで、無責任、まとめ無しで、で、”sayonara” では大変困ります。今、産まれた希望あふれる赤ちゃん!!。後5年10年でも気候は、温暖化の上昇、海面の上昇等などは、ええ加減なことしてたら。。。。!!

 

教授

 

 

 

Filed under: 思い出いろいろ,未分類 — yoshihiro 11:39 PM  Comments (0)

京都中小企業家同友会を退会について

1990年6月1日、小さな企業家として、何かグループの中で、共に研鑽できる仲間があればいいな~との思いも出来て、小田さんという化粧品の販売されている京都でも凄腕のおばさんから少し前から、入会のお話もあって何年間置いていたこともありで、その時は、誰の推薦もなく、入会となった。

あれから、時は進み、広報委員長、常任理事、を5年ほど指してもらい。その後には、脳内出血をして69日の入院を経験をした。在る年には、”絆”は大事だという事は、はやりした年もあった。今思うと、集会、会議は、夜が多かった。そして、あれ?、この議題何年前に、やっているんじゃなーい?!!。とか言うのがよくある会でもある。私が、広報委員長の時に、会費値上げありで、7,000円となり、“今まで以上よりより充実する内容となる会とする。という事で、当時の、財務委員長私の家の近くの印刷やの、村上君と、無い知恵を絞って、総会の時にはスクリーンを張って映写をして彼は、がんばった。が、今はもう退会しておらず。他の友人もすでにおらずで、今までをその後を振り返っても、何か、進歩に影はない会でのように思う。退会者10名ほど、入会者10名ほど/月の激しい会員出入りしている。去る者は追わずのといえる。大物は、他界した。事務局員の人員削減などと経費削減等は、見られていない古い暖簾は続いている。

お互いは弱者である。私も、足元を踏みしめて、我が道を人のために、歩いていく。

Filed under: 思い出いろいろ — yoshihiro 11:07 PM  Comments (0)

 薄っぺらのせんべい布団 で、彼と一緒に寝ました。 

随分と昔のことだ。住友金属和歌山製鉄所の試験課に配属され、当時は、高炉をボンボンと建て、経済関連のBOSSとして、政治家への言もよく言ってられた頼もしい”日向方斎”と言う社長は、私の系列の上司でもあった。私は、当初、朝は良く出社して本社前、近くに祭ってある神さまを掃除していた。ある日、伊勢神宮にある”修養団がする神都道場なるものへ会社命令で1月8日から行って来いというもであった。掃除は代わる代わるの朝、勤務始まり前に約30分ばかり多くの大先輩としていたものだ。何で?私が?もう一人の工場長(200数人の部下を持っておられる方)と?の、思いが直ぐに、脳裏を走りました。私は、入社のまえは、京都大学工学部の盛 利貞 教授の直属で研究員として冶金学教室の中で、実験作業をしてきました。そして、洛陽高校定時制卒業のとき、一応、盛教授が、国家公務員初級の試験を受けてみろとのお言葉があり、受けて、合格しました。高校の仲田校長さんは、「今まで、国家公務員初級合格は、たいへん難しいて、」と校長室までに呼ばれて、担任の、佐倉先生共々褒めていただいた。しかし、受かったんですが、内の私の佐藤家のお金の事情大変なので、公務員は当時は、給料は、民間の会社と比べると低かった。ので、私は、京大での職員は、無理です。と盛 教授に進言しました。快く感受くださり、それでは、和歌山にある住友金属の入社試験でも受けてみますか?と言うことでした。大企業に定時制卒業の人は、まー入社暦は無いと言う事でした。私は、ボランテイア活動ではJRC{Junior Red Cross}青少年赤十字部での部長、文化部長、級長位の、お山の大将では、社会の海原には通用せえへんで!!。と確信しましたが、盛教授のバックの応援もあり、入社できました。教え子が試験課(ここも200名ほどの社員さん)の課長されている所でした。ただ私を見る目が甘かったので、いやだった。いずれにしても、いま、修養団の主幹として奉仕活動に日夜邁進されている、蓮沼力太郎さん(お父様は、蓮沼門三99歳第一代の息子様,当時の宇部興産からの代表であった)と修養期間は冷たい五十鈴川に白衣を纏って早朝、一緒に首までつかりました。そこから上がった後の少し一杯の甘酒の接待は、ほんとうにおいしかった。一度は、会いに行って昔話に、よき時を持ちたいと思う年となった。いま、富士火災そして最近、new India insuaransの代理店をしている。今の、富士火災はAIG とかとの関係と一緒になるかどうか?AIG のトップのホーンなどと20年間のアリコジャパン当時、総会の時には、NY一年間元中曽根総理の社団法人日本人間能力開発協会の代表として留学しました多少の経験を生かしてツタナイ英会話をさしてもらったことはありました。何時か、AIGの外人さん、また、元アリコジャパン京都支店におられた戸国COさんともお話をしたく思う。平成19年6月26日悪夢のような脳内出血で69日間の入院。それからの杖を突き、愛車に乗っての、ペタルを踏むがすべりすべりの連続、いまは、30回にいっぺんぐらいの踏み外しはあります。早く、オートマにしたら!と言う人もいるが、これも、リハビリです。もう6年が来ます。しかし徐々に、OKとして生てきている。

Filed under: 思い出いろいろ — yoshihiro 12:09 AM  Comments (0)
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