京都での果敢無い脈々道に吹く音

京都は脈々と先史より今を京都を山河と共に、ある時より今も、雅事を造ってきている。体に汗を流しての動きを成している庶民の人達と、口先と 手先に瘤を造らなくても生活が三度のおまんまがいただけるの人達の存在する二重奏を成して盆地形成ある土地柄に、色色な道を考えながらの時を過ごしている。 昔の悪しき歴史の人達はーーーー

ーー毎日を、贅沢放題での公家族を造り、大きな屋敷の中で、浮かれた人達ー{麻呂は~、とか言ってホッツホッツ}と庶民をあざけ笑っての時代はありましたそうです。そして、---

ーーー花を愛し花を生活のなかに”生け花”の精神安らぎを求めての所に、華やかな道、”華道”を造り、きれいな着物を着て化粧に心を配りの集いすることでお金の流れを生み、そこに産業も生みで、又、今も、三角形を成した組織の中で、心の清き流れの成育は、あるところのお金持ちでしかないと楽しめないものとして、これも、大きな建物の中での一種の遊興と見え、遊金化ト動いている。昔、一休和尚は一輪の花を召して、そこに、心の充実を知る。と云うた。と思うのですが?。。ーーー

ーーーまた、お茶をいただく事も、人は、儀式を造り、そこに”茶道”の精神的な道があるのだ!!、ト言って、同様に、生活の中でのお金には、おいとの無い(無理算段)の人々の集まりを造り、三角形成の組織を造り、お金は、動く。茶器の商品業者の生まれなどでの交流も出来るが、ある。

今も、問題である人々の生活の中での、”貧富の格差”と言う事。悠久に、ある惰性的に汗をかかない手先での事造り、集まりに、自らの精神道を鍛えるのです。ト言うまやかしの姿を造り、他の人々の事を排除するような人間が出来ないだろう―か?と、危ぶむ一人であります。

、もっと書きたいのですけど、時も遅いのでつずきは、またの時まで。

 

Filed under: 悪癖と悪風の群衆 — yoshihiro 11:24 PM  Comments (0)
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